先人に想う⑤ - ホイヘンス兄弟

望遠鏡発祥の地オランダが生んだ鬼才クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)は、イタリアのガリレオに発した天体望遠鏡を発展させて土星の環や衛星タイタンを発見し、光学理論の基礎ともいえるホイヘンスの原理を体系化して「光の波動説」を唱えました。また、現代の懐中時計や腕時計につながるヒゲゼンマイ式の機械式時計を発明したのもホイヘンスです。

ガリレオの後継者」と評されることもある、ホイヘンスに迫ってみたいと思います。

*ホイヘンスの使用した望遠鏡と観察対象の記述が不正確でしたので、追記・修正しました。ハイゲンス式接眼鏡と各種発見との因果関係を時系列で示している文献はみつけられませんでした(2020.1.18)。
**ホイヘンスの著書に木星の縞模様をスケッチがあり、記事を修正しました。木星の縞模様の発見はフックやカッシーニではなく、ホイヘンスの功績であった可能性があります。また、新たに分かった事実などを元に、本文を一部修正・追記しました。(2021.5.22)

■ ホイヘンス一家
ホイヘンス本人による土星の観測記録です。
年々変化する環の様子が記録されています
(※画像はWikipediaより。パブリックドメイン)
 
ホイヘンス家はオランダ王室ナッソー家の分家オラニエ家に仕えた貴族で、父親のコンスタンティンはあのガリレオ・ガリレイと直接の交友関係があった(*Wikipedia)とのことです。このコンスタンティンは音楽家でもあり、ガリレオの父も音楽家でしたから、そういう繋がりもあったのかもしれません。

 そして我々天文屋が知っている「ホイヘンス(ハイゲンス)」は三兄弟で、光の波動説を唱えたりハイゲンス式アイピースを発明して土星の環を発見したりしたのは2番目の弟クリスティアーンです。また、長兄コンスタンティンJr.はレンズの研磨法を開発して空気望遠鏡を開発しました。
 残念ながら末弟のローデヴァイクは科学には縁がなかったようで、保安官としての生活を送りながら、ちょっとグレていて各所で問題を起こしていたようです。まあ、父親の友人や兄たちが人類史に燦然と輝くような変人たちだったのですから、三男のローデヴァイクが普通の人だったならヤサグレてしまうのも致し方のないことだったのかもしれず、同情を禁じ得ないところです。

 ちなみに、晩年のガリレオはオランダのライデン大学にいて、落体運動の理論などを記述した "新科学対話"を執筆していました。これは検閲を逃れるためで、そう考えるとオランダという国が科学を大切にしていた国だったということが伺えます。
 その頃のクリスティアーンやコンスタンティンJr.はそれぞれ8歳と9歳の幼年でしたから、ガリレオから直接の影響を受けたかどうかは微妙なところです。しかし、近くに住んでいて父と交友のあったガリレオの業績やその地で執筆された論文は、ホイヘンス兄弟に大いに影響を与えただろうことは想像に難くありません。この兄弟はともにライデン大学で学んでいます。
 現実に、ホイヘンス兄弟は望遠鏡の世界にのめり込み、またガリレオが考案した振り子時計を実際に製作し、新たな機械式時計の発明を行っています。

■ 光の波動説と光学理論
クリスティアーンは、
「物体上の各点から光が球面状に伝播する」
ことを示して理論を組み立てました。
(※図は"Treatise on Light by Christiaan Huygens"より。
パブリックドメイン。)
光の波動説を唱えて光学理論の礎を築いたのは、弟のクリスティアーンです。「ホイヘンスの原理」は大変有名で、屈折(スネルの法則)や回折現象を光の波動性から説明することに成功しました。
 光学の歴史は古く、1世紀頃のギリシャ人プトレマイオスの時代から、屈折の法則については研究されていました。10世紀にはイブン・サフル(Ibn Sahl)によって屈折の法則が文献として記されています。
 そして時代は下って17世紀のガリレオらの時代にも盛んに光の研究は為されたようで、「スネルの法則」はこの時代のものです。ガリレオの時代には既に「眼鏡屋」があったのですから、実験的な「屈折現象」は十分に活用されてはいました。

 ホイヘンスの原理が凄いのは、こうした屈折現象や、光の「回折」という現象を波動性という考え方で理論的に計算できるようにしたことです。論文中では、曲面を持つガラスによる結像などが作図法によって示されています(パラボラレンズで1点に結像する、とも)。
 この理論と方法論によってレンズの「収差」を予測、補正することが可能になっていったものとも言えます(※古くは、サフルも自ら見出した屈折の法則によって収差補正を考えていたようです)

■ 惑星観察とハイゲンス式接眼鏡
ホイヘンスによる大シルチスのスケッチ
火星の大シルチスのスケッチ
Christiaan Huygens
(画像はWikipediaより,パブリックドメイン)
こうした屈折の理論や作図法によって、レンズの収差補正には長焦点が有利であることを導き、兄のコンスタンティンJrと共に空気望遠鏡を製作することでガリレオが見破れなかった土星の環を環であると見破り、衛星タイタンを発見しています。

 ハイゲンスと言えば接眼鏡が有名ですが、こうした発見にはハイゲンス式接眼鏡の開発は間に合ってはいなかったようです。タイタンが1655年、土星の環は1656年の発見ですが、ハイゲンス式接眼鏡は1662年の発明です(さらには発表されたのは彼の死後1703年です)。
 ハイゲンス式接眼鏡は2枚のレンズを使って収差を補正するもので、クリスティアーンの設計によるレンズ構成は、倍率の色消しが成立する焦点距離とレンズ間隔になっていたとともに、「球面収差が最小になるように設計した」と本人が言っていた(*1)そうですから、十分に設計・検討がなされたアイピースだったようです。

 ちなみに、1955年に土星の衛星タイタンを発見したときに用いた望遠鏡は、口径57mm、焦点距離3300mmで(*1)、倍率は50倍だったそうです(*2)。接眼鏡は単レンズと思われます。これはだいぶ低めの倍率でしたから像はシャープだったと思われ、ホイヘンスもその性能には大変満足していたようです。
 更に彼は「土星の耳」「取っ手」に関する自らの仮説を検証するために翌年1656年には焦点距離7mの望遠鏡を製作し、これによって土星の環を環として認識しました(*3)。また、翌年には37mの望遠鏡を使って土星の観察を行っていますが、環の傾きの変化や消失を観察出来ても、カシニの隙間を見破るには少々力不足だったようです。
(※ここの記述は出版物を参考に書きましたが、出版物の記述内容に疑義があるため記載を取り消しました。2021.5.22)

 なお、彼は様々な天体に望遠鏡を向けていて、火星の大シルチスを最初に観察して自転速度を求めたのも、同火星の極冠を観察したのも、水星の日面通過を観察したのもクリスティアーンです。

ホイヘンスによる木星のスケッチ
ホイヘンスによる木星のスケッチ
(出典:SYSTEMA SATURNIUM, 1959)
 それにしても不思議なのは、彼は木星の縞模様を発見していないことです。火星表面の模様を「自転を正確に求める程度に」観察できるほどの性能の望遠鏡を彼は所有していたにも関わらず、です。当時は大赤班も現代より大きかったと思うのですが、それも見つけられていません。縞模様の発見は、土星の環の隙間で有名なカッシーニによって行われるのを待たねばなりませんでした。(まさか木星と何かの天体の衝突とかがこの時期にあって、縞模様が現れたのはそこから後だったり…?なわけないか。)

 ホイヘンスが火星の自転を算出できるほど模様が見える性能の望遠鏡を持ちながら木星の縞模様を発見していないのはおかしい、と思っていましたが、彼の著書「SYSTEMA SATURNIUM(1659)」の原著を調べたところ木星の縞模様のスケッチと共に「木星の縞もしく帯("Jovis zonae seu fasciae" ≒ "Jupiter's belts or ties")」との記述がありました。
 木星の縞模様はフックやカッシーニの功績(1664)ということになっているようですが、縞模様自体はホイヘンスによって記述されていました。個人的には、木星の縞模様の発見はホイヘンスに帰すべきもののように思います。 なお、木星の縞模様はイタリアのフォンタナによってこれより以前に記録されています。
ホイヘンスによるオリオン大星雲
(出典:SYSTEMA SATURNIUM, 1959)

 なお、同時代にホイヘンスと競って惑星観察を行っていたヘベリウスによる木星のスケッチには「怪しげな模様(の想像図)」が描かれているだけで、木星に縞模様があるということは勿論知られていませんでした。
 また、惑星観察ではありませんが、オリオン大星雲M42のスケッチを最初に行ったのもホイヘンスです。 (2021.5.22追記)

*1 吉田正太郎, 望遠鏡発達史(上), pp72, 1994
*2 Christiaan Huygens, Wikipedia
*3 Huygens and improvement of the telescope

コンスタンティンJr. ホイヘンスによる空気望遠鏡
焦点距離約6mです。
※画像はWikipediaより。パブリックドメイン。


 
■ 空気望遠鏡
 クリスティアーンは、自身の論文をもとに「収差」を補正する方法を考案していきます。
 そして長焦点望遠鏡にたどり着くのでした。単レンズであっても、十分な長焦点にすれば収差をなくせる、というものです。
 この方法の場合、鏡筒が非常に長大になるために「筒」を省略したので、「空気望遠鏡」と呼ばれています。

 この望遠鏡の製作は、兄のコンスタンティンJrが追及していたようです。コンスタンティンはレンズの研磨法の開発も行っていたとのことです。

 彼は英国のロイヤルソサエティ向けに口径190mm、焦点距離37.5mの空気望遠鏡を作り、今なお保管されるそれにはコンスタンティンJrのサインが入っているとのことです(*4)。
 また200mm、60mという単レンズも磨いたそうですが、この当時のガラスではいくら正確に磨いても脈理などが残り、200mmの口径のものは望遠鏡にならなかったようです(*1)。

 弟のクリスティアーンが天才過ぎて目立たない感もあるコンスタンティンJrは、魔術を信奉したりもしていたようですが、当時の技術でよくぞ実用になる望遠鏡を作り上げたものだと思います。彼の望遠鏡あってのクリスティアーンの成果だったとも言えます。

*4 Constantijn Huygens, Wikipedia

■ 時計
 弟クリスティアーンは「ガリレオの後継者」という言われ方をすることもあるようです。ガリレオは晩年に振り子式時計を考案していますが、これは実際に製作されることがないまま世を去ってしまいました。このガリレオによる振り子時計の発案は1637年のことですから、ガリレオがオランダにいた時期のことです。
 クリスティアーンは、このガリレオの遺志を継いで(?)か、ガリレオの死から14年後の1656年に振り子式時計を開発し、完成させるのです。彼はガリレオが研究していた落体運動や振り子の等時性についても論文"Horologium Oscillatorium sive de motu pendulorum"をまとめており、ガリレオの後継者という表現はピッタリだと私も思います。いや、理論面についてはあまり多くを残さなかったガリレオ以上に、クリスティアーン・ホイヘンスは科学者だったようにも思います。

 正確な時計の存在は、天文観測においても大切ですし、当時は航海で正確な海図を作る上でも重要な装置だったようで、大変重宝されたものと思います。
 そうした需要がある中で、クリスティアーンは更に工夫を重ねて「ヒゲゼンマイ式の機械時計」の発明に至ります。この発明の名称は "Pocket Watch(懐中時計)"ということで、発明の内容と共に現代にも生きる装置を発明・開発していたわけです。

_____________
 このように、ホイヘンス兄弟の科学への貢献は華々しいものがあります。実はこの記事を書くまで、ガリレオとホイヘンス一族の関係については知らなかったのですが、よくよく調べてみると脈々と繋がっているものがあり、この350年前のこの時代においてもこうした人的交流が天文学・科学を発展させてきたのかと思うと、感慨深いものがあるなと思ったのでした。

にほんブログ村 科学ブログ 天文学・天体観測・宇宙科学へ

_

コメント