先人に想う⑨ - パーシヴァル・ローウェル

ローウェルの日本での延べ3年に及ぶ生活が「火星人の発見(?)」に果たして影響したのかどうか、大変興味がそそられるところです。今年2022年は火星中接近のある年ということで、「実体験で知的好奇心をくすぐる檄文作家」とでも言うべきパーシバル・ローウェルにスポットライトを当てるとともに、この2022年になって改めて内容が公開された鉛筆メモ*1にあった「運命の日」も踏まえ、まとめてみました。

Percival Lowell による火星の「運河」
(Credit: Percival Lowell,
1905, lowell.edu, public domain)

パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell, 1855-1916)は大富豪のローウェル家に生まれた日本研究家で、のちに火星の「運河」が人工的なものだと唱えてアリゾナ州に私設天文台を建て、その天文台で惑星X(冥王星)が発見されたことで天文学者としても名を馳せました。
 彼が火星や惑星Xに没頭する以前、ローウェルは文学を志した日本研究家として横浜港に降り立っていました。
 ローウェルが残した日本に関する著述は多く、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「ローウェルの著書に感銘を受けて来日を決意した」「その表現力に私は遠く及ばない」と断言した*2ほど、ローウェルの日本研究と文学的表現には卓抜したものがありました。

 日本から帰米したローウェルが情熱を注いだ天文学の分野では、結果的に「火星の運河は知的生命体によるもの」という説が正しくなかったことから、その科学的業績そのものよりも天文台設立にスポットライトが当たることが多いようです。
 ここでは、ローウェルによる日本や火星研究を当時の時代背景とともに振り返り、彼の情熱の源泉やそれがもたらした功績について書いてみたいと思います。

■ローウェルによる「日本」
 Lowell家の始祖と同じ「Percival」の名を継いだ彼は、数学で優秀な成績を修めて21歳でハーバード大を卒業した後、文学を志す外国研究家として世界各国を旅しました*3。また、日本に私費旅行中だったローウェルは、米国政府の要請を受けて李氏朝鮮の米国行き使節団の指導役秘書官として朝鮮に赴任していたこともあります。
 ローウェルは数学のほか語学能力にも優れ、母語の英語の他にラテン語とフランス語を得意としていました。当然ながら日本語も研究・習得しており、日本語に人称代名詞が無いことを発見したのもローウェルでした*2*3

麻布のローウェル邸を訪うガールフレンド
麻布のローウェル邸を訪う女性
(Credit: Percival Lowell,
source: 宮崎正明*3)

 ローウェルは1883~1893年の10年間に4回日本を訪れて通算3年間を過ごし、大日本帝国憲法発布の当日も日本にいてスナップ写真を残しています*2*3東京は麻布に住んでそこにはガールフレンドもいた*3ようです(*このときのローウェルは独身です)。

 彼が日本について書いた論文や記事は数多くあり、また日本から家族に宛てた手紙や自ら撮影した明治維新当時の日本を記す鮮明な写真なども現在に残されています。こうした研究を束ねて出版した日本に関する著書は3冊におよび、すなわち「能登-日本の辺境 (NOTO - An Unexplored Corner of Japan)*5」「極東の精神(The Soul of the Far East)*6」「オカルト・ジャパン(Occult Japan)*7」が後世に伝えられています。

 能登行きの旅行では、かつて松尾芭蕉が「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」の句を詠んだ能生(現新潟県糸魚川市)の地にも、ローウェルはその句からちょうど200年後に宿泊していました。

ローウェル撮影の塩尻の宿屋
「脇本陣
*3」,1889年
(Credit: Percival Lowell,source: 宮崎正明*2)
 

 また、ローウェルはガラス乾板式のカメラを携行しており、明治維新の頃の日本の日常を高い解像度で撮影しています。この当時の日本のスナップ写真としては大臣の肖像写真級に解像度が高い、極めて価値の高い資料と思われますが、これらはアリゾナのローウェル天文台において1980年代に発見されました。(写真から推測するとおそらく1/10秒程度の露光時間で撮影できていたようで、当時としては相当に高感度の乾板を携えて旅行していたと考えられます。)

 こうした日本への滞在や日本国内の旅行を通じて、ローウェルは日本人や日本語が持つ非個人性などを指摘しつつ、西洋とは全く異なる神道・仏教文化や、四季の美しさを愛でる文化に傾倒していきました。

 そして「極東の精神」の中で、地球外知的生命体の可能性についてこう語るのでした。ローウェルが日本での滞在期間中に地球外知的生命体について思考を始めていたことは間違いありません。

もし我々が惑星間を横断できるなら、木星で(ガリバー旅行記の)リリパットの国を、セレスではブロブディンナグの国を発見できるかもしれない。そこに我々と同じような筋肉で構成される人々がいるなら、彼らは大きな惑星では比例して小さく、小さな惑星では大きいに違いない。他の太陽の周りには、さらに奇妙なものが存在する可能性がある。」と。
原文: Gulliver's travels may turn out truer than we think. Could we traverse the inter-planetary ocean of ether, we might eventually find in Jupiter the land of Lilliput or in Ceres some old-time country of the Brobdignagians. For men constituted muscularly like ourselves would have to be proportionately small in the big planet and big in the small one. Still stranger things may exist around other suns. In those bright particular stars—which the little girl thought pinholes in the dark canopy of the sky to let the glory beyond shine through—we are finding conditions of existence like yet unlike those we already know.

■ローウェルにとっての日本と天文と火星
 ローウェル自身は幼少の頃から天文書を多く読む天文少年だったようで、15歳の時に与えられた2.25インチ(5.7cm)の望遠鏡で火星の極冠を眺めていたことを、晩年になってもよく語っていたようです*2
 そしてローウェルの最後(4回目)の来日目的は、「火星観測の拠点探し」でした。彼は名門アルヴァン・クラーク製の6インチ(15cm) F14.7屈折赤道儀を携えて来日*2しています。彼のこの来日は1892年12月で、この年の8月6日には火星大接近(24.8秒角)のあった年でした。しかし、どうやらローウェルはこの大接近時の火星観測ができず残念がったようで(仔細不明)、日本に到着したときの火星は8秒角程度になっていました *9
Alvan Clark製6インチF14.7屈折赤道儀,ローウェル天文台展示
ローウェルが日本に携行した
15cm F14.7屈赤

(Credit: uto,  original article: light_bucket_18のblog,使用許可取得済)

 ちょうどこの頃の日本には東京天文台が開設されたばかりで、望遠鏡は英国トロートン社製20cmの屈折赤道儀がドームに収められ、またスライディングルーフの観測室などもあったようです。
 この時期の東京天文台はローウェルが住んでいた麻布にあり、また、ローウェルと個人的なつながりもあったモース東京帝大教授が天文台の開設を指導していたということもあり、ローウェルが自宅近所にできたばかりの東京天文台に行かなかった筈は無いと思うのですが、その記録を見つけられないのは謎です。(※但し、ローウェルの4回めの来日時にはモースは帰米後です。)

 結局のところ、日本の冬のシーイングの悪さが原因でローウェルが日本との訣別を決意したようです。大接近後に小さくなった火星を、日本の冬のシーイングで眺めたローウェルは大いに失望したのでした。

 そして伊勢参りを果たしたあとに、次の火星中接近(1894年10月)のおよそ1年前に帰米し、日本に関する著書を執筆・出版して一区切りをつけたのでした。

■火星の「運河」の観測史とローウェル
 火星の「運河」は、イタリアのアンジェロ・セッキが最初に"Canale Atlantico"という言葉を用いて火星の模様を示し、ジョバンニ・スキアパレリが線条模様に対して用いた「canali(溝)」という言葉を用いたことが発端です。これが英訳される段階で「canals(運河)」となり、「人工的な」というニュアンスが付加されたものでした。

初期の火星図 (1840年)
(Credit: W.W.Beer, J.H.Maedler,
source: P.Lowell*7, public domain) 
 火星の模様自体は古くはホイヘンスによって1659年に大シルチスが描かれて以来、多くの観察が為されています。1800年代には特に、望遠鏡の発達に伴って多くの火星観察が行われました。
 1840年にはドイツのヨハン・メドラーとヴィルヘルム・ベーアによって火星図が作成され、1864年には"鷹の目"の異名を持つ鋭眼の牧師 W.R.ドーズ(ドーズの限界の人)が20cm屈折で詳細なスケッチを残し、これが火星図化されました。

 時代的には、全長164kmに及ぶスエズ運河が1869年に開通した頃の話で、これはちょうどローウェルが15歳の誕生日に望遠鏡をもらって火星に向けたタイミングです。もちろん、ガガーリン以前のこの時代には未だ宇宙から地球を眺めたことのある者もいるはずもなく、火星の黒っぽい模様は「海」、赤い部分は「陸」とされました。

スキアパレリによる火星図
(Credit: G.V.Schiaparelli,
source: P.Lowell*7, public domain)
 スキアパレリがミラノ天文台の22cm屈折によって火星図を発表したのは1877年のことです。同時期に、フラマリオンも火星図を発表しています。スキアパレリは更に詳細な線条模様が描かれた火星図を、1879、1881、1884年と次々にアップデートしていきました。ちょうどローウェルが最初の日本・アジア滞在を行った頃のことです。

 日本のシーイングに絶望して1893年に帰米したローウェルは、望遠鏡指南役の W.H.ピッカリングと共にアリゾナ州フラグスタッフに私設天文台を1864年に設立しました。この設立年の火星中接近に対しては、ハーバード大から借りた12インチとアレゲニー天文台から借りた18インチ屈折(1894年5月にFlagstaffに設置)で迎え撃ったのでした。

 この時のローウェルの感想は、「東洋学に固執したり6インチ(15cm)の小口径で見てたのは失策だった。ピッカリングの言う通り大口径だとこんなに見えるのが分かっていたら、南半球に場所を探したのに。見逃した(1892年レベルの)大接近は2003年までない。*1」というものでした。

 そしてピッカリングと共に火星を眺めた運命の1894年10月20日を迎えます。この日はシーイングが良く、ローウェル自身が「完璧な視界*1」と述べたその日こそが彼の火星人運河説開始の記念日となりました
 日本への滞在や能登の旅行を通じて地球外知的生命体の存在を意識していたローウェルは、「観察者はしばしば存在しない場所に詳細模様が存在すると仮定し、見えないものを見る傾向がある*1」と自ら戒めながらも、この日の火星について「運河の驚くべき青みがかったネットワークが見えてきて、否定できなくなった。私は初めて、ある種の知的存在による仕事の結果を見ていると完全に確信した*1」と記し、それが見えることをピッカリングと確認し合ったのでした。

 好シーイングの日に見る惑星像というのは思いのほか感動的なもので、まさにデジタル画像処理結果くらいの見え方をします。この日のローウェル、ピッカリングの両名が46cm屈折で眺めた中接近中の火星がいかほどのものだったか、想像するだけでも楽しくなりますし、そこに「直線的な構造」「二重線に見える模様」はおそらく本当に見えたのだろうと思います(たとえばこちらのデジタル画像のように)。

 ちなみに、ローウェルが考えた「運河」は灌漑用というもので、地球におけるそれとは異なるものでした。これは、火星の環境が地球とは大きく異ることを勘案したもので、水が貴重なものに違いないという科学的考察からの想像でした。
ローウェルによる火星図 (1895)
黒い斑点は湿った「オアシス」で、これらが灌漑用運河で接続されていると考えた

(Credit: P. Lowell, source: Annals of the Lowell Observatory, 1895, public domain)

 この後のローウェルは、天文台に24インチ(61cm)の屈折望遠鏡を建造して火星の観測に打ち込みます。この望遠鏡はやはりアルヴァン・クラーク社(Alvan Clark & Sons)製のもので、同社2代目アルヴァン・クラーク社長(=シリウスBの発見者)が自ら設置据付の指揮を執ったという由緒正しいものです。同社は、世界最大の屈折望遠鏡を納入したメーカーでもあります。

火星面の経年変化 (1907-1954)
同位相の火星面の変化 (ローウェル天文台長スライファーによる写真継続観測)
(Credit: E.C.Slipher, source: Sky & Telescope誌*11より引用, 1955)

 ローウェルは肉眼の不確かさをよく分かっており、写真観測にも力を入れていました。ローウェル天文台のスライファー台長(*)が撮った火星の写真を見ると、数十年の間に模様が変化している様子が記録されています。(*スライファーは赤方偏移を発見した人です)

 また、望遠鏡による観測だけでなく、ローウェルは気球上から道路がどう見えるのかという観察も実際に行ったりして、真実に近づこうとしていたのでした。 しかし「火星の運河」は、その後のアントニアジの83cm屈折での詳細観察などでは「運河に見えている模様は細かい斑点の集合にすぎない」と否定され、ついに探査機が火星に届くようになってこの火星人運河説は完全に否定されてしまいます。

「探査機直後」の運河についての見解
(Credit: 牧野信秀,
天文ガイド1971年増刊号より引用*10
 確かに直線的な構造や二重線は火星面に見えると思いますが、ローウェルが描いた多くの運河は実在しなかったわけです。
 その一方で、火星面の青黒い模様の形や色彩の変化が認められていたことは事実で、このアントニアジらの時代には植物の存在はまず間違いないと信じられており*10、ローウェルが掻き立てた想像の世界は、現代の火星探査への興味につながる影響力があったのは確かです。

■ローウェルの功績
 火星人による運河説は後の探査機によって完全に否定されたこともあって、批判も少なくありません。ローウェルの著書「Mars and its Canals」も恣意的だとか科学的でないといった評価も見受けられます。
 また、惑星X(冥王星)にしても「位置の予測をしたが実は間違っていて、トンボーが見つけられたのは偶然だ」という意見もあるようです。

 しかし彼の人生をよくよく読み解いてみると、これらの批判はいささか的外れのようにも個人的には思えます。

 彼はもともと文学家をめざしていたのであり、学者として名を成そうとしていたわけではありません。家柄には既に名士としての地位があり、お金や功名心のために何かをする必要などありませんでした。

 追い求めていたのは、「まだ誰も見たことがないものを見て書き遺す」ことだったのではないかと思われてなりません。日本や世界への旅行、気球の上からの地球の観察、そして大口径屈折での火星など、多くのものを見て文章にしたのがローウェルでした。

 この、天文趣味の原点とでも言うべき「素朴な好奇心を情熱を持って探究」する姿勢と結果を文学として出版し、後に続く偉人・傑人達の心に熱い火を付けたことこそが、ローウェルの最大の功績ではなかったかと思うのでした。多くの人達が火星に注目して詳細な観察を行い、また惑星Xを探したわけです。探査機が飛ぶことになった原動力の原点をたどると、ひょっとしたらローウェルの文才に行き着くのかもしれません。
 「惑星X」には、ローウェルに会ったこともないトンボーによって、彼のイニシャルP.L.を込めてPLutoという名が贈られました。そこに込められたリスペクトには、何かを感じないわけにはいかないのです。

______________
[参考文献]
1. Tom East, "The Lowell Letters", 2022
2. Percival Lowell著, 宮崎正明 訳・著, "NOTO - 能登・人に知られぬ日本の辺境", 十月社, 1991 (原著1891)
3. 宮崎正明, "知られざるジャパノロジスト - ローウェルの生涯", 丸善, 1995
4. 斉田博, "おはなし天文学 [1]", 1973
5. Percival Lowell, "The Soul of the Far East", 1888
6. Percival Lowell, "Occult Japan", 1895
7. Percival Lowell, "Mars and its Canals", 1906
8. David Seals, Percival Lowell, "Martians - The Flagstaff Observations", 2012
9. M.Minami, M.Murakami, "LOWELL’s 15 cm Refractor in 1892"
10. 牧野信秀, "火星の生物学", 天文ガイド'71年7月臨時増刊「火星-観測と研究」, 誠文堂新光社, 1971
11. William M. Sinton, "New Findings about Mars", Sky and Telescope, No.9, Jul, 1955
12. K.S.Schindler, "100 Years of Good Seeing - The History of the 24 inch Clark Telescope", Lowell Observatory, 1996


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コメント

4.5inch さんのコメント…
lambda様
数十年前に読んだ『おはなし天文学』を思い出させてくれるような大変読み応えのある記事でした。
ラムスデン関係の記事は、とても興味深く、好きです。
これからも良質な記事を楽しみにしております。
Lambda さんの投稿…
4.5inchさん、コメントありがとうございます!

斉田先生の「おはなし天文学」や「宇宙の挑戦者」には本当に興味深いエピソードが多いです。実は今回の記事も、おはなし天文学の1巻に「日本との関係」の記載が僅かながらあって、そこが発端でした。

当時よりも容易に資料を入手できるので、より当時の偉人の活動に迫れることに面白さを感じております。

ラムスデンの記事、そのほか「かつて常識とされてたこと」が必ずしも本当でもないということに、ますます面白さを感じている次第です。

応援、感謝いたします!