江戸時代後期の鉄砲鍛冶、国友一貫斎(=9代目 国友藤兵衛, 1778-1840)が製作した日本製として最古の反射望遠鏡は、180年を経て今なお観測可能なほどに輝きが保たれている神奇の金属鏡が有名です。奇しくも、当ブログで少し話題に上げたのと似た時期にNHKでもこの鏡は紹介されたのでありました。
その一貫斎による"テリスコップ"は、ご本人が言う「十年に而も百年に而もクモリ事無御座候」(天保7年, *1)との言葉に全く相違はなく、また研磨精度も現代の普及望遠鏡に迫る精度です。
当時の欧州製をはるかに凌駕する耐久性のこの金属鏡については、もう少し掘り下げた研究もあるようでしたので、ここでは、これらをまとめつつ、国友一貫斎がどんな世界を眺めていたのかにも思いを馳せてみたいと思います。
■ 時代背景
国友一貫斎が江戸で望遠鏡を見聞した文政(1800年頃)の時代というと、西洋ではW.ハーシェルが20フィート、40フィートの望遠鏡を完成させて10年以上が経過していた時代で、またメシエカタログが完成して20年ほど経った時代でもあります。西洋では、ちょうど金属鏡反射望遠鏡の大口径競争が始まろうとしていた頃、ということになります。
一方の日本はと言えば鎖国の真っただ中で、西洋科学はオランダからの輸入情報の解読から、という状況でしたが、それでも感覚的には30年程度の遅れでついて行っていたようです。
国友一貫斎が活躍した時代は、彼よりも33歳年上の伊能忠敬や14歳年上の幕府天文方 高橋至時が、メシエの同僚ジェローム・ラランドの著書の解読を終えて改暦を済ませた直後でした。
一貫斎が江戸に出たのは22歳の頃のことで、当時の天文学の権威の成果がちょうど生々しかった頃だろうと思います。ラランドの著書には暦だけではなく望遠鏡についても記述がありましたから、望遠鏡についての知識を持った人物は当時の江戸にはいたということになります。実際に彼が国友村に戻って望遠鏡を製作したのは55歳の時のことで、長年にわたって培ってきた職人の知識と技を結集させたものであったろうと思います。
ちなみにこの時代の西洋の望遠鏡としては、既にアクロマート屈折望遠鏡はありましたし、反射望遠鏡としてはグレゴリー式が流行していました。接眼鏡はハイゲンス式が標準で、ラムスデンが新型を発表したばかりという時代感です。
■ グレゴリー式反射望遠鏡
グレゴリー式反射望遠鏡は、英国の数学者ジェームズ・グレゴリーによって発明された世界初の反射望遠鏡です。放物面の主鏡と楕円面の凹面副鏡からなる望遠鏡で、正立像が得られるのも特長の一つでした。合成焦点距離は主鏡焦点距離の9~10倍程度で、主鏡はF6程度のものが主流だったようです(*2)。
このグレゴリー式は、製作時期こそニュートンに先を越されはしましたが、この1700年代にはかなり標準的な望遠鏡だったようです。当時の有名製作者はジェームズ・ショート(1710-1768)で、メシエが使った望遠鏡にもショート製グレゴリー式反射望遠鏡がありました。
この時代のグレゴリー式望遠鏡には口径5~6cm前後のものも多く製作されたようで、こうしたものがオランダとの貿易によって日本に入ってきていたのかもしれません。
ちなみに、一貫斎の望遠鏡はオランダ製と比較した間重新(*)から「蘭製よりも格別に能(よ)く出来の由(よし)申し聞かされ」(*4)と彼の手記にあり、だいぶ性能が良かったようです。当時の日本にある望遠鏡としては最高品質だったものと思われます。
*間重新(はざま しげよし), 伊能忠敬を指導した間重富の長男。
■ 実用的な鏡面精度の国友鏡
一貫斎の望遠鏡の鏡については、精度が高いという報告がこれまでも上がっていました。NHKの番組(*7)内で調べられたところによれば、P-Vで0.67λ(λ/1.5)であったとのことです。大変大雑把ですが、RMS値で言おうとすると概ね1/4.4λ相当の鏡という具合かと思います。別な報告ではRMS 1/8λという精度だったとの報告もみかけます。
同じNHKの番組内で調べた現代の市販品は P-Vで0.88λ(λ/1.14, RMS約λ/3.4)と0.30λ(λ/3.3, RMS約λ/10)ということでした。国友鏡がものすごく良く見える鏡だとは言えませんが、十分実用的な精度の鏡だったとは言えます。ハレー彗星の頃に販売されていた一般的な望遠鏡も似た精度ではなかったかと思います。精密な測定装置のない時代にこれを製作していたのですから、驚嘆に値します。
■ 国友一貫斎が眺めていた宇宙
この望遠鏡を使って、どのような世界を眺めていたのか、というのは気になるところです。月や惑星のスケッチ(と言っても墨で描かれているのですが)を見ると、ちょうど出来の良い6cmくらいの望遠鏡で眺めたイメージの絵になっています。
月については、一貫斎ご本人曰く「月は夜々かわり、誠に楽しみに相成り申しそうろう。かけ(欠け)ぎわにて見申しそうろうと、山谷の高ひく(高低)能(よ)く相訳(わか)り、山谷等の所、白く見えそうろう所は、雪に相異有るまじくと存ぜられそうろう(*4)」とのことで、掛け際のクレーターの様子を楽しんでいたようです。また、山谷があったり、「雪があるに違いない」と考えたあたり、月が地球と同様の大地を持つ天体だということはハッキリ認識されていたことが伺えます。
惑星についてもスケッチや記録があり、金星の満ち欠け、木星の縞模様や衛星、土星の環を記しています。土星の衛星タイタンも「付星」として記録されており、この一貫斎の望遠鏡であれば確かに見えたであろうと思うところです。(木星の第5衛星についても記述があるようですが、14等星のこれを6cmの望遠鏡で確認するのはさすがに無理で、近くの恒星だろうという村山先生のご意見が正しかろうと思います。)
なお、当時の日本に伝わった惑星の図には土星のカシニの隙間は描かれていますが、残念なことに一貫斎のスケッチには描かれていません。6cmの λ/4鏡と、当時のアイピースでは難しい対象だったろうと思います。
こうした過去の記録をweb上にまとめられた きまぐれ睡龍氏 は国友一貫斎の観察について「当時の天文学や暦学の通説に関係なく、また他の人が書いた図版からの影響も受けず、先入観なしに自分が見たままに忠実にスケッチしたものだったのだろう。」と記しておられますが、私もそう感じます。
国友一貫斎は、天文学を理論的に突き詰めていくニュートンやケプラータイプというよりは、理論はともかく発明を通じて良く観察したガリレオタイプだったように思います。
■ 驚異の耐食性の主鏡
さて、国友一貫斎の望遠鏡の真骨頂はその鏡の材質です。この時代の反射望遠鏡は、主鏡が金属鏡という時代で、表面がすぐに曇ってきてしまうのが課題でした。
当時の金属鏡の材質は銅とスズ(錫)の合金で、いわゆる「青銅(ブロンズ)」と言われる材料です。この青銅は、スズの混合比によっては「砲金」とも別名されて大砲にも使われたものですから、鉄砲鍛冶にとっては比較的馴染みのある材料ではあったろうと思います。
青銅というのは、文字通り放っておくと青い銅イオンの色をした「緑青」とよばれるサビが浮いてきてしまう金属です。我々が良く知っている草薙の剣とか銅鐸とか大仏だとかの材質で、作った時には光り輝いていてもやがて青っぽく曇ってしまう材質なのです。
さて、一貫斎の望遠鏡に用いられた主鏡の材料については、2015年になって分析結果が京都大学から発表されています(*1)。その分析によると、銅(Cu)とスズ(Sn)の重量比が 67%:33%となっていて、西洋のニュートン、ハーシェル、ロス卿の金属鏡と比較するとスズの量が多めの組成になっていることが分かっています。(ちなみに、錬金術を研究していたニュートンの鏡の組成もヒ素が入っていたりとなかなか特殊です)
この組成によって、反射光の色味も白(銀)に近づき(青側の反射率が改善)、その上驚異の耐食性を実現しているようです。「プラチナに匹敵する」という驚異の耐食性とのことで、論文では試料の製作から10年以上もの放置期間を経ての反射率測定結果が示されています。
私も、金属や材料は専門外ということもあって、この論文を見るまでは「銅-錫合金の状態図」などというのは初めて見たのですが、よく見かける鉄合金とか鉛-錫合金(ハンダ)の状態図などとも違う趣きがあって興味深いところです。
この驚異の耐食性の原理は、「金属間化合物(Cu4Sn)」にあると論文は指摘しています。合金と言うのは基本的には混合物なので、顕微鏡で観察すると混ざっている金属がまだらに現れたりするものなのですが、ある割合で混ぜた金属に熱を加えたりすると金属原子同士が化学的に結合した別の物質が現れることがあって、それが金属間化合物というわけです。
一貫斎の主鏡は、この金属間化合物の出現によって、耐食性が著しく向上しているようです。
なお、論文の写真を見ると、一貫斎の鏡は金属間化合物が一部に現れるのではなく、ほぼ全てが金属間化合物になっているという点も見逃せません。普通は、金属間化合物が現れるのは一部分で、普通の金属がまだらに現れるのが一般的と思っていましたが、この配合の銅-スズ合金では、銅がCu4Snに多く取られると周囲のSn濃度が上がって別の金属間化合物(ε相)が生じるというとても面白い状態が出現するようです(Sn33-35%ではδ相とε相だけになっているように論文からは読み取れます)。
このような総金属間化合物化によって全体の耐食性は向上するわけですが、その中でも特に耐食性の高いCU4Sn(γ相)が優勢になる配合を一貫斎は採用していたということのようで、ここにたどり着くまでの実験調査の過程を思うと熱いものを感じないわけにはいきません。
更に想像するに、金属間化合物では原子間距離が異なる元素が配列することになるので変形しにくく、したがって硬めで脆い材料となり、割れやすさを除けば研磨にも適した主鏡材だったのではないかとも思われます(論文には硬さや強度と言う観点でこのことが示されています)。
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こうして、現代の水準で見ても驚嘆すべき技術が込められている国友一貫斎の望遠鏡ですが、なお驚きなのが、それが業務として為されたというよりは天文愛好家として為されたフシがある、というところでした。
国友一貫斎は、もちろん我が国にとっての天文学の開拓者に違いなかったと思いますが、それ以上に望遠鏡マニアでもあり、日本人天文ファンの開祖ではなかったか、とも思うのでした。望遠鏡に注ぎ込まれた持てる技術の数々には、敬意を表せねばなりません。
天文学は、現代の科学技術の原点に近いところにあると私は思っています。そうした学問を進歩させた原動力の一つは、「好奇心を導いてくれる星の姿」ではなかったかという思いを新たにしたのでありました。
----------- 引用文献など
*1 富田良雄 ほか, 国友藤兵衛製作の反射鏡の耐食性について, 国立科学博物館研究報告 E類(理工学) 第38巻
*2 吉田正太郎, 「望遠鏡発達史[上]」記載のデータより, p121-122,1994
*3 有馬成甫,「一貫斎国友藤兵衛傳」東京 武蔵野書院, 1932
参考サイト/記事:
*4 「国友藤兵衛一貫斎の部屋」,サイト 国友藤兵衛と化石の館
*5 「国友一貫斎の反射望遠鏡」,サイト 歴史的望遠鏡バーチャル博物館
*6 宇宙眺めた近江の奇才 国友一貫斎関連資料, 日本経済新聞(2019.2.6の記事)
その一貫斎による"テリスコップ"は、ご本人が言う「十年に而も百年に而もクモリ事無御座候」(天保7年, *1)との言葉に全く相違はなく、また研磨精度も現代の普及望遠鏡に迫る精度です。
当時の欧州製をはるかに凌駕する耐久性のこの金属鏡については、もう少し掘り下げた研究もあるようでしたので、ここでは、これらをまとめつつ、国友一貫斎がどんな世界を眺めていたのかにも思いを馳せてみたいと思います。
■ 時代背景
国友一貫斎が江戸で望遠鏡を見聞した文政(1800年頃)の時代というと、西洋ではW.ハーシェルが20フィート、40フィートの望遠鏡を完成させて10年以上が経過していた時代で、またメシエカタログが完成して20年ほど経った時代でもあります。西洋では、ちょうど金属鏡反射望遠鏡の大口径競争が始まろうとしていた頃、ということになります。
国友一貫斎による反射望遠鏡 (口径6cm、倍率60-70倍程度*4) ※画像はwikiより, パブリックドメイン |
国友一貫斎が活躍した時代は、彼よりも33歳年上の伊能忠敬や14歳年上の幕府天文方 高橋至時が、メシエの同僚ジェローム・ラランドの著書の解読を終えて改暦を済ませた直後でした。
一貫斎が江戸に出たのは22歳の頃のことで、当時の天文学の権威の成果がちょうど生々しかった頃だろうと思います。ラランドの著書には暦だけではなく望遠鏡についても記述がありましたから、望遠鏡についての知識を持った人物は当時の江戸にはいたということになります。実際に彼が国友村に戻って望遠鏡を製作したのは55歳の時のことで、長年にわたって培ってきた職人の知識と技を結集させたものであったろうと思います。
ちなみにこの時代の西洋の望遠鏡としては、既にアクロマート屈折望遠鏡はありましたし、反射望遠鏡としてはグレゴリー式が流行していました。接眼鏡はハイゲンス式が標準で、ラムスデンが新型を発表したばかりという時代感です。
■ グレゴリー式反射望遠鏡
グレゴリー式反射望遠鏡は、英国の数学者ジェームズ・グレゴリーによって発明された世界初の反射望遠鏡です。放物面の主鏡と楕円面の凹面副鏡からなる望遠鏡で、正立像が得られるのも特長の一つでした。合成焦点距離は主鏡焦点距離の9~10倍程度で、主鏡はF6程度のものが主流だったようです(*2)。
このグレゴリー式は、製作時期こそニュートンに先を越されはしましたが、この1700年代にはかなり標準的な望遠鏡だったようです。当時の有名製作者はジェームズ・ショート(1710-1768)で、メシエが使った望遠鏡にもショート製グレゴリー式反射望遠鏡がありました。
この時代のグレゴリー式望遠鏡には口径5~6cm前後のものも多く製作されたようで、こうしたものがオランダとの貿易によって日本に入ってきていたのかもしれません。
ちなみに、一貫斎の望遠鏡はオランダ製と比較した間重新(*)から「蘭製よりも格別に能(よ)く出来の由(よし)申し聞かされ」(*4)と彼の手記にあり、だいぶ性能が良かったようです。当時の日本にある望遠鏡としては最高品質だったものと思われます。
*間重新(はざま しげよし), 伊能忠敬を指導した間重富の長男。
■ 実用的な鏡面精度の国友鏡
一貫斎の望遠鏡の鏡については、精度が高いという報告がこれまでも上がっていました。NHKの番組(*7)内で調べられたところによれば、P-Vで0.67λ(λ/1.5)であったとのことです。大変大雑把ですが、RMS値で言おうとすると概ね1/4.4λ相当の鏡という具合かと思います。別な報告ではRMS 1/8λという精度だったとの報告もみかけます。
同じNHKの番組内で調べた現代の市販品は P-Vで0.88λ(λ/1.14, RMS約λ/3.4)と0.30λ(λ/3.3, RMS約λ/10)ということでした。国友鏡がものすごく良く見える鏡だとは言えませんが、十分実用的な精度の鏡だったとは言えます。ハレー彗星の頃に販売されていた一般的な望遠鏡も似た精度ではなかったかと思います。精密な測定装置のない時代にこれを製作していたのですから、驚嘆に値します。
■ 国友一貫斎が眺めていた宇宙
一貫斎による月のスケッチ ※画像はwikiより,パブリックドメイン |
月については、一貫斎ご本人曰く「月は夜々かわり、誠に楽しみに相成り申しそうろう。かけ(欠け)ぎわにて見申しそうろうと、山谷の高ひく(高低)能(よ)く相訳(わか)り、山谷等の所、白く見えそうろう所は、雪に相異有るまじくと存ぜられそうろう(*4)」とのことで、掛け際のクレーターの様子を楽しんでいたようです。また、山谷があったり、「雪があるに違いない」と考えたあたり、月が地球と同様の大地を持つ天体だということはハッキリ認識されていたことが伺えます。
惑星についてもスケッチや記録があり、金星の満ち欠け、木星の縞模様や衛星、土星の環を記しています。土星の衛星タイタンも「付星」として記録されており、この一貫斎の望遠鏡であれば確かに見えたであろうと思うところです。(木星の第5衛星についても記述があるようですが、14等星のこれを6cmの望遠鏡で確認するのはさすがに無理で、近くの恒星だろうという村山先生のご意見が正しかろうと思います。)
なお、当時の日本に伝わった惑星の図には土星のカシニの隙間は描かれていますが、残念なことに一貫斎のスケッチには描かれていません。6cmの λ/4鏡と、当時のアイピースでは難しい対象だったろうと思います。
こうした過去の記録をweb上にまとめられた きまぐれ睡龍氏 は国友一貫斎の観察について「当時の天文学や暦学の通説に関係なく、また他の人が書いた図版からの影響も受けず、先入観なしに自分が見たままに忠実にスケッチしたものだったのだろう。」と記しておられますが、私もそう感じます。
国友一貫斎は、天文学を理論的に突き詰めていくニュートンやケプラータイプというよりは、理論はともかく発明を通じて良く観察したガリレオタイプだったように思います。
■ 驚異の耐食性の主鏡
さて、国友一貫斎の望遠鏡の真骨頂はその鏡の材質です。この時代の反射望遠鏡は、主鏡が金属鏡という時代で、表面がすぐに曇ってきてしまうのが課題でした。
当時の金属鏡の材質は銅とスズ(錫)の合金で、いわゆる「青銅(ブロンズ)」と言われる材料です。この青銅は、スズの混合比によっては「砲金」とも別名されて大砲にも使われたものですから、鉄砲鍛冶にとっては比較的馴染みのある材料ではあったろうと思います。
青銅というのは、文字通り放っておくと青い銅イオンの色をした「緑青」とよばれるサビが浮いてきてしまう金属です。我々が良く知っている草薙の剣とか銅鐸とか大仏だとかの材質で、作った時には光り輝いていてもやがて青っぽく曇ってしまう材質なのです。
さて、一貫斎の望遠鏡に用いられた主鏡の材料については、2015年になって分析結果が京都大学から発表されています(*1)。その分析によると、銅(Cu)とスズ(Sn)の重量比が 67%:33%となっていて、西洋のニュートン、ハーシェル、ロス卿の金属鏡と比較するとスズの量が多めの組成になっていることが分かっています。(ちなみに、錬金術を研究していたニュートンの鏡の組成もヒ素が入っていたりとなかなか特殊です)
この組成によって、反射光の色味も白(銀)に近づき(青側の反射率が改善)、その上驚異の耐食性を実現しているようです。「プラチナに匹敵する」という驚異の耐食性とのことで、論文では試料の製作から10年以上もの放置期間を経ての反射率測定結果が示されています。
私も、金属や材料は専門外ということもあって、この論文を見るまでは「銅-錫合金の状態図」などというのは初めて見たのですが、よく見かける鉄合金とか鉛-錫合金(ハンダ)の状態図などとも違う趣きがあって興味深いところです。
この驚異の耐食性の原理は、「金属間化合物(Cu4Sn)」にあると論文は指摘しています。合金と言うのは基本的には混合物なので、顕微鏡で観察すると混ざっている金属がまだらに現れたりするものなのですが、ある割合で混ぜた金属に熱を加えたりすると金属原子同士が化学的に結合した別の物質が現れることがあって、それが金属間化合物というわけです。
一貫斎の主鏡は、この金属間化合物の出現によって、耐食性が著しく向上しているようです。
なお、論文の写真を見ると、一貫斎の鏡は金属間化合物が一部に現れるのではなく、ほぼ全てが金属間化合物になっているという点も見逃せません。普通は、金属間化合物が現れるのは一部分で、普通の金属がまだらに現れるのが一般的と思っていましたが、この配合の銅-スズ合金では、銅がCu4Snに多く取られると周囲のSn濃度が上がって別の金属間化合物(ε相)が生じるというとても面白い状態が出現するようです(Sn33-35%ではδ相とε相だけになっているように論文からは読み取れます)。
このような総金属間化合物化によって全体の耐食性は向上するわけですが、その中でも特に耐食性の高いCU4Sn(γ相)が優勢になる配合を一貫斎は採用していたということのようで、ここにたどり着くまでの実験調査の過程を思うと熱いものを感じないわけにはいきません。
更に想像するに、金属間化合物では原子間距離が異なる元素が配列することになるので変形しにくく、したがって硬めで脆い材料となり、割れやすさを除けば研磨にも適した主鏡材だったのではないかとも思われます(論文には硬さや強度と言う観点でこのことが示されています)。
----
こうして、現代の水準で見ても驚嘆すべき技術が込められている国友一貫斎の望遠鏡ですが、なお驚きなのが、それが業務として為されたというよりは天文愛好家として為されたフシがある、というところでした。
国友一貫斎は、もちろん我が国にとっての天文学の開拓者に違いなかったと思いますが、それ以上に望遠鏡マニアでもあり、日本人天文ファンの開祖ではなかったか、とも思うのでした。望遠鏡に注ぎ込まれた持てる技術の数々には、敬意を表せねばなりません。
天文学は、現代の科学技術の原点に近いところにあると私は思っています。そうした学問を進歩させた原動力の一つは、「好奇心を導いてくれる星の姿」ではなかったかという思いを新たにしたのでありました。
----------- 引用文献など
*1 富田良雄 ほか, 国友藤兵衛製作の反射鏡の耐食性について, 国立科学博物館研究報告 E類(理工学) 第38巻
*2 吉田正太郎, 「望遠鏡発達史[上]」記載のデータより, p121-122,1994
*3 有馬成甫,「一貫斎国友藤兵衛傳」東京 武蔵野書院, 1932
参考サイト/記事:
*4 「国友藤兵衛一貫斎の部屋」,サイト 国友藤兵衛と化石の館
*5 「国友一貫斎の反射望遠鏡」,サイト 歴史的望遠鏡バーチャル博物館
*6 宇宙眺めた近江の奇才 国友一貫斎関連資料, 日本経済新聞(2019.2.6の記事)
*7 NHKニュース「江戸時代の反射望遠鏡 鏡の精度は現代レベル」
コメント
いつもながら、すばらしい論文のような価値ある記事、素晴らしいです。
(私の八割妄想のゆとりブログの投稿文とは比較にすらならない(笑))
技術というものは、時代が新しくなるほど高い、とは必ずしも言えない
のですね。ロストテクノロジーという場合もありますし。
技術に関しては、「分かっている気になってて分かってない」ことがままあるなあ、と思っています。
私も、多くのことが分からないまま過ごしています。
今の時代は特に、「本に書いてあること」「ソフトに組み込まれていること」の情報量が多いですから、それが全てだと思い込んでしまいがちなのかもしれません。
しかも、表面的な理解で済ませてしまう場合も多いです(私も)。
古いものや方法を調べてみたり、よーく考えてみると、実は常識だと思っていたことが必ずしもそうではなかったりして、とても面白いなあと感じています。