先人に想う⑧ - 1600年台の望遠鏡と土星の環のロマン

土星の環を初めて見たのは1609年のガリレオ・ガリレイでしたが、これを「本体をとりまく環」だと見破ったのは1659年のホイヘンスでした。ありがちな解説では「ガリレオの望遠鏡では性能が足りなくて」などと書かれていますが、これは誤りです。ガリレオも確かに土星の環を見ており、そして彼が磨いた対物レンズは回折限界を満たす精度であったことが干渉計で確かめられています。

 もちろん望遠鏡の性能の進歩はありましたが、土星の環が見破られなかったのは「星を取り巻くリング」というものが当時の人々にとって摩訶不思議すぎて想像の外過ぎたという面も大きかったと思います。
 ガリレオのスケッチにも、我々が少望遠鏡で眺めている土星とほぼ同じ姿が捉えられたものはありました。しかしこれが「薄っぺらいリング」だというところまでは思い至るには、ホイヘンスによる観測の積み上げが必要だったのでした。
(※2021.8.5. 一部誤字を修正しました。ヘベリウスに関する記述を一部追記しました。)

Drawings of Saturn in 1600's (17th century)
1600年代の土星のスケッチの変遷
ガリレオの時点から、我々が小望遠鏡で見るような土星の姿は観察されていました
(Credit for digital data: Erassmatz.com for Galilei's /  World digital lib. for Huygens' / Royal society for Cassini's)


 このリングをめぐる観察&論争合戦については斉田博氏著の「おはなし天文学 4」に詳しいのですが、ここでは当時の先人達が使った望遠鏡の性能を軸にして振り返ってみたいと思います。
 私の見立てでは、1609~1680年頃の望遠鏡で現代の水準に比肩できるようなものは、ガリレオによるもの、フォンタナによるもの、ホイヘンスによるもの、そしてディヴィニおよびカンパーニによるものくらいだったのではないかと思います。これらは現代の望遠鏡と比較しても必ずしも劣っていたわけでもなさそうです。

 天体をより良く見るために先人達が機材改良に流した汗にも味わい深いものがあります。

■ ガリレオの時代 (1610年ごろ)

 望遠鏡黎明期にあって、ガリレオが製作した望遠鏡はかなりのクオリティで、しばらくこれを超えるものは現れなかったと思われます。難点があったとすればそれは倍率で、ガリレオ式の視野の狭さ故に低倍率にせざるを得なかったことが惜しまれるところです。
 同時期のクラビウスは、自身の望遠鏡で土星を見て「楕円形だ」と述べています。しかし、ガリレオは100枚以上のレンズを自ら研磨して良いものを選別して望遠鏡に組み上げた結果として他の学者とは次元が違う観察ができていて、環と本体の間の空間やその形を早くから認識できていたわけです。

 ガリレオから望遠鏡を贈られたガッサンディオディエルナはその望遠鏡を使って土星観察を行い、ハッキリとした環の形を記録しています。彼らのスケッチを見る限り、現代の小口径望遠鏡と比べてもガリレオの望遠鏡が著しく劣っていたわけではいことがハッキリ分かります。20倍程度の低倍率であることを考えると、むしろ驚異的な性能だったと言えます。

 ちなみに、メディチ家に寄贈されたガリレオの望遠鏡のレンズはフィゾー干渉計で計測されており、レポートがNature誌の記事になっています。14倍の望遠鏡に付いていた51mmの対物レンズは波面誤差λ/4以内の球面とのことで、相当に高精度なものです。アイピースなどの精度はそこまでではなかったようですが、絞られたガリレオの望遠鏡は色収差も含めて全波面誤差が回折限界に収まっていたと報告されています。当時のイタリアの「ベネチアン・グラス」は光学用途に適していたようで、後にホイヘンスもイタリアからガラスを取り寄せて使用しています。 
Specification of Galileo Galilei's telescope lenses
ガリレオ製望遠鏡のレンズ仕様
(メディチ家寄贈品)
 

 ガリレオが最初に土星に向けた望遠鏡は、9倍のものだったと言われています。その後多くの望遠鏡が製作され、メディチ家に寄贈された有名な望遠鏡はレンズ径37mmを有効径15mmに絞った焦点距離980mm (F65)の倍率21倍のもの(参考)と、レンズ径51mm(有効径26mm)の1330mm (F51)で倍率14倍のもの(参考1, 参考2) の2連装でした。視野の広さが口径で決まるガリレオ式では、倍率の低いほうが大きい口径になっています。
 現代の望遠鏡を15mmや26mmに絞ってみて、環がどのようにみえるのかを私も確認してみたいところです。

 ガリレオが最初に発表した土星の環についての記述は1610年の「3つの星」ですが、その後の1616年には「耳」だと発表していて、これは我々が入門用望遠鏡で見るのとほぼ同じ姿です。ちなみに、ちょうどこの間の1613年に土星の環はいわゆる「消滅」状態になっていて、ガリレオはじめ学者の皆様は大いに頭を悩ませたようです。この6年の間にガリレオは、多くの改良を望遠鏡に施したのだろうと思います。

■ フォンタナ (1610~1650年頃)
 卓抜した望遠鏡製作と観察の割にはあまりその名の知られることのないフランシスコ・フォンタナ(Francesco Fontana)は、ガリレオよりも20才前後年下の優れたナポリの光学機器職人でした。

Drawings of Jupiter's belt, by Fontana
フォンタナによる木星
左: 1630年、右1639年
(Credit:
P.Molaro, FRANCESCO FONTANA
AND THE BIRTH OF
THE ASTRONOMICAL TELESCOPE
)
 
 フォンタナは正の接眼レンズを持つ望遠鏡を独自開発して使っていたようです。1608年に発明していたとのことですからケプラーの考案よりも早かったわけで、世に知られなかった時間が長かったことで損しているようです。
 多くの観察はガリレオの観察の追認と、自身の望遠鏡の売り込みのための月面図に費やされたようですが、惑星観察でも重要な発見をしています。木星の縞模様や、水星の満ち欠け、火星の満ち欠けを見出しています。木星の縞模様についてはフォンタナは1630年に観察しており、さしもの後述の天才ホイヘンスも1歳ではどうしようもなかったところです。
 木星の縞模様を確認できるほどの解像度を持つ望遠鏡は当時としては唯一無二のものでしたが、良き学会の支持者を得なかったことがフォンタナの運が及ばなかったところではないかと思います。
 しかしそれでも、彼が多くのスケッチを残した月面のクレーターに、彼の名は冠されたのでありました。

■ ヘベリウス vs ホイヘンス兄弟 (1650年代)
 ガリレオ以降には、多くの学者が望遠鏡を覗くようになり、土星の「耳」というか「腕」あるいは「取っ手」は広く認知されるようになり、それが何なのかは学者の興味を惹きました。

 天才クリスティアーン・ホイヘンスは、1653年に購入した望遠鏡がよく見えなかったことに憤慨し、長兄コンスタンティンJrとともに眼鏡職人からの知識を集め、研磨機を発明して望遠鏡を作りまくった機材マニアでもありました。そして最初に製作した望遠鏡を土星に向け、即座に土星の衛星タイタンを発見しています。

 作った望遠鏡には自信があったようで、他の学者の望遠鏡を「性能が悪い」とディスっています。土星の奇妙な形が何なのかが分からないのは望遠鏡の性能が自分のほどは良くないからだ、と公言していたのです。
 機材をディスられるのは古今東西を通じて争いのタネであるようで、同じライデン大学法学科を出た18才年上のヘベリウスは我慢ならずに反論したようです。
 
Planets drawings by Hevelius
ヘベリウスによるスケッチ
土星、金星、木星(1647年)
(Credit for digital data:
Linda Hall Library)
 
しかし当時のヘベリウスによるスケッチを見る限り、彼の1650年前後の望遠鏡の能力はガリレオの望遠鏡と比べても優っていたかどうかが怪しいようにも見えます。土星の環や本体は不正確に歪み、木星の表面には怪しげな模様(想像)が描かれていて表面模様は全く見えていなかったことが伺え、少なくともヘベリウスの望遠鏡はフォンタナのものに全く及んでいなかったことは確定的です。
 そういえば、メシエカタログの二重星M40も、ヘベリウスによって「星雲がある」と記述されたことからメシエが確認を行い、「これは二重星である」としてカタログに掲載したものです。52秒角も離れた二重星を分離できないのですから、だいぶ苦しい性能だったと断ぜざるを得ません。
 ヘベリウスといえば有名なのは1673年に完成した150フィート(D=150mm、fl=46m)の空気望遠鏡ですが、この建造もホイヘンスによるディスりがきっかけだったのかも知れません(揺れて使い物にならなかったと記録されています。土星の環論争終結後の1670年代のスケッチはかなり明瞭になっていますが、それでもホイヘンスに及びません)。

 さて、ホイヘンスによる土星のスケッチをググると怪しげな絵が出てくるのですが、多くは彼が比較用に示した他者のスケッチで、なぜか正しいホイヘンス本人によるスケッチが出てきません(苦笑)。

Saturn drawing by Christiaan Huygens
ホイヘンスによる土星スケッチ
(credit: Huygens, SYSTEMA SATURNIUM,1659)
 そこでよくよく"SYSTEMA SATURNIUM (土星系,1659)" の原著を調べてみました。そこにあるホイヘンスによる土星のスケッチはなかなかに精緻で、土星本体に落ちる環の影までもが正確に描かれていました。これを見る限り、ホイヘンスの望遠鏡はガリレオのもの以上の性能で、倍率が高い分だけ良く見えたのだろうと思います(D=57mm、fl=3.37m、50倍)。なおこの望遠鏡のレンズ自体は、クリスティアーンが自身で磨いたようです。
 この望遠鏡では、世界初のオリオン大星雲のスケッチや木星の縞模様や火星の大シルチスが記録され、火星に至っては自転周期も観測されています。口径6センチに満たない望遠鏡としては、よく見える部類だったと言えます。

 この望遠鏡をホイヘンス自身が自慢していたせいか、土星の環を見破れたのは望遠鏡の性能のおかげだという説もよく見かけますが、実はこれはこれで誤りであるように思えます。

 望遠鏡の性能だけで言えば、先述のフォンタナもホイヘンスよりも先に木星の縞模様を見ていたわけで、フォンタナの望遠鏡も近い能力があったと見ることができます。しかしフォンタナは衛星の運動を含めた科学的継続観察を行うには至っておらず、ガリレオの考えた世界観から出ることはなかったのです。
 ホイヘンスの「SYSTEMA SATURNIUM」を見ると分かるのですが、彼は環とともに自らが発見したタイタンの動きを追い続け、環の見え方と衛星の周回の仕方に関係があることを観察から導いていたのでした。つまり、衛星の軌道面と土星の環の面が一致しているということをホイヘンスは見出し、その結論として土星の周囲にあるものが「環」だとSYSTEMA SATURNIUMを通じて発表したというわけです。
 ちなみに、ハイゲンス式接眼鏡の発明はこれらの発見よりも後の1662年で発表は1703年ですから、この発見とハイゲンス式は関係ないようです。

 望遠鏡の性能も観察眼や記録の緻密さも、ホイヘンス兄弟はヘベリウスを凌駕していたと言えます。ちなみにホイヘンス兄弟は10cm~19cmのレンズを数多く磨いています。「土星の環の観察には焦点距離37mの空気望遠鏡が用いられた」という記述もみられますが、空気望遠鏡のレンズが磨かれた年代はもっと後(1686年)ですので、誤認だと思われます(参考: ホイヘンス兄弟のレンズリスト)。

■ カッシーニ with カンパーニ (1665年頃~)

 ジョバンニ・カッシーニはホイヘンスよりも4才年上で、25歳で教授になった気鋭の天文学者でした。ホイヘンスによって土星の環の謎の論文が発行された1659年、カッシーニが31歳の頃に27歳だったホイヘンスの著述を見て色々思うところはあっただろうと思います。

Jupiter drawing by Giovanni Cassini
カッシーニによる木星面(1691.Jan)
(版画でコレです)
(credit: Faloni.M, SAO/NASA ADS)
 

 有名な土星の環の「カッシーニの空隙(1675)」や木星の永続斑の発見(1665)に使われた望遠鏡は、光学器械職人のジュゼッペ・カンパーニによる1665年のものでした(D=110mm、fl=11.16m、112~223倍,参考)。この望遠鏡による木星のスケッチを見ると、11cmの口径では現代のアポ屈折でもこれ以上は無理なのではないかというくらいに細かい表面模様を記録しています。もちろん、探査機による写真はおろか先人による観察記録すら無い時代の話ですから、想像や先入観でこのような絵を描くのは無理な話です。

 この時代の各種スケッチの比較からすると、ホイヘンスの望遠鏡を超える性能のレンズを製造できた職人はカンパーニとその師匠のエウスタティオ・ディヴィニくらいなものだったと思われます。ディヴィニ製のレンズはロバート・フック(ばねの法則の人)が使用してやはり木星の縞模様の克明なスケッチを1664年に残しています。
 これらのスケッチはホイヘンスの1659年の著述にあるものよりも遥かに克明で、縞模様に濃淡や変形があり木星面に斑点があることも示していました(フックは永続斑の発見に関する功績でカッシーニと並んで称せられることがあります。"SEB"などの縞模様の名称をつけたのもフックです)。
 ディヴィニはかつてホイヘンスの他者望遠鏡ディスりに対してヘベリウスと同様に「抗議」していましたが、この師弟の作る望遠鏡は確かにホイヘンスと同等以上の性能だったと言えそうです。

 弟子のカンパーニがカッシーニに納めた望遠鏡には、分離式3枚玉のアイピースが装着されており、収差も大きくならないように工夫されていたようです。この辺りに鑑みると、カンパーニの望遠鏡は対物レンズのみならず接眼レンズの研磨もかなり優れていたものと思われます。
 カッシーニの空隙は0.6秒角ですから、11cmの口径ではいわゆる回折限界以下のものを見ていたわけで、F=100の長焦点による対物レンズの収差補正だけでなくアイピース側の研磨の優劣も効くと思われ、カンパーニ製の望遠鏡はここが優れていた可能性が高かったろうと思います。

 そういう意味で、超一流の機材を手に入れられたカッシーニは幸運だったと言えないこともありません。ですが、その機材を使って木星の自転や土星の観測を継続的に行ったことが大きな業績に繋がったことは言うまでもありません。

_____
 こうして土星をはじめとする惑星観察を通じて望遠鏡の技術は進歩してきたとも言えますが、望遠鏡の優劣は必ずしも時代や表向きのスペックが決めるのではなく、製作者の優劣というか情熱によるところが大きいということを再確認したのでした。
 そして、多くの優秀な観測者がより良く見ようとして行った工夫や努力と好奇心が、様々な発見につながった面があるなと思ったのでありました。

にほんブログ村 科学ブログ 天文学・天体観測・宇宙科学へ

コメント

ケニ屋 さんのコメント…
今回も興味深く拝読させていただきました。斉田博先生のお名前が出てきて嬉しい限りです。とにもかくにもカッシーニのスケッチの素晴らしさには感嘆しますが、かの地のシンチレーションがどの程度影響していたのか興味は尽きません。先人の苦労があってこそ、今我々が楽しめていると言うことは、謙虚に受け止めなければならないですね。
Lambda さんの投稿…
ケニ屋さん、

コメントありがとうございます!
 そうです、以前ケニ屋さんに斉田博先生のお話を伺っていくつか著書を集めていたのでした。斉田先生の本は、実によく調べられていると思います。現代と違って書物を調べるのも容易でなかったと思いますし、いくつもの事柄を関連付けて当時の様子を書かれているのは驚愕です。
 そして、私の「先人に想う」シリーズも、書くハードルが上がってしまったのでました ^_^;;; (著書に書かれてない事実にたどり着くのは大変です)


 さて、シンチレーションやシーイングについても、この時代の先人が既に気づいて記述していたようです。それがホイヘンスだったか、カッシーニだったか、フックだったかが思い出せません(ゴメンナサイ)。
 これだけの性能の望遠鏡を使っていれば、確かに気になっただろうと思います。

ただ、当時はエアコン室外機などはなかったでしょうから、夏場はよく見えただろうと思います。冬場は流石に暖炉が邪魔だったでしょうけど、現代ほどには密集してない分だけ影響軽微だったかも知れません。